手箱山氷室番所跡

手箱山てばこやま氷室ひむろ番所跡ばんしょあと

所在地
いの町中野川
所有者
高橋接雄
員数
1
指定日
昭和57(1982)年8月1日

手箱氷室跡の発掘の発端は、昭和47(1972)年10月22日から始まります。旧本川村の人たちに氷室跡と呼ばれている場所は、高知県旧土佐郡本川村越裏門手箱山五十九林班ロ小班といわれる所です。手箱山一帯は国有林であり、この氷室跡は手箱山の山頂よりやや下った東南斜面に、標高約1,500mに位置しています。10月31日の調査で氷室の室があるだろうと村の人たちが考えていた地点を20~30㎝掘り下げたところ、木炭の塊が出土しました。これは確かに古い時期に誰か人が住んでいた証拠であると、この掘り出した木炭を持って意気揚々と手箱の山を下りたそうです。

本格的な考古学上の発掘調査は、昭和48(1983)年10月1日から5日まで行なわれました。前年の調査で木炭の塊が出土した氷室跡といわれていた平坦地は、東西の幅が17.8m、南北の幅4.0m、そして南北の幅はその広場の西端で広くなって6.0m。発掘を進めると、家を建てるにまず必要な礎石が整然と出土ました。この礎石のあり方から、この平坦地にかつて昔一軒の平屋が建っていたことを知ることができます。

そして、まず寛永通宝が1枚発掘されました。この発見で、まずこの氷室跡の場所は江戸時代のものであることに絶対間違いない証拠となります。また、古伊万里焼の碗の破片が一片出土し、いま一つは、先端の細くなった薄い鉄片が1個出土しました。さらに、平坦地に登る階段の上部で、ひき臼の上部の部分、それも半分になったものを発見しました。

発掘調査した結果、出土したのは、製氷の石の室ではなく屋敷跡でありました。しかしそれはただの屋敷跡ではなく、高山にある屋敷跡であり、また、出土する鉄製品や、くさった棒状の鉄器であることから、これはやはり氷室関係のものと考えられます。しいて言えば氷室の検分をし、また氷製造にたずさわった氷室番所と言ってもよいものでしょう。結局「南路志」「寺川郷談」に揚げてあるように、発掘した屋敷は雪屋と呼ぶのが最も適切でしょう。


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