伝本山清茂「梅溪」の墓地

伝本山でんもとやま清茂きよしげ梅溪ばいけい」の墓地ぼち

※こちらは私有地のため、見学には特別な許可が必要です。

所在地
いの町枝川
所有者
(墓)本山茂良、(土地)植田厳朗
員数
1
指定日
昭和54(1979)年6月15日

戦国時代、土佐の七守護の一人として勢力を誇った「本山梅溪の墓地」が枝川八代の奥にあります。

梅溪(梅慶とも書く)は、初名を清茂、後に茂宗、左近大夫と称しました。父は本山養明といい本山城主(現長岡郡本山町)で永正5(1508)年頃、山田、吉良、大平の諸氏とはかって長宗我部兼序を滅しました。

梅溪は父の跡をつぎ、次々と近辺の城を滅ぼして勢力を強め、土佐中部を横断して本拠地を本山から朝倉へ遷し、朝倉城を築いて、土佐郡、吾川郡と高岡郡の東部を手中に収めて五千貫を領しましたが天文24(1555)年朝倉城で病死したと伝えられています。

この墓地は、昔より梅溪の墓として祀られ、南北5.0m、東西3.7mの中に前部(幅1.96m×1.3m二段組高さ78.0㎝)これに接続して後部(1.78m×0.92m高さ35.0㎝)の基壇からなっていて、その前部基壇の上に昭和9(1934)年11月、梅溪十五代の孫本山茂虎氏建立(墓碑銘寺石正路撰、横田早馬書)の墓碑があります。

なお、個人所有のため立入不可となっています。


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