野中兼山遺跡「八田堰の跡」
野中兼山「八田堰の跡」
- 所在地
- いの町八田~大内
- 指定日
- 昭和41(1966)年11月29日
仁淀川の「八田堰」は、上流の「鎌田堰」と、現香美市土佐山田町の「物部川の山田堰」とともに、野中兼山によって築造されました。
兼山は今から340年前、土佐二代藩主、山内忠義の家老職として仕え、その職は約30年に及びました。その間、土木工事、港湾の整備、産業の奨励、用水路の開発など多岐にわたり、不朽の名を残しました。
「八田堰」は兼山が最も油の乗り切った中期の時代で、慶安元(1648)年に着手し、6年の歳月を費やして完成しました。当時仁淀川に堰をして用水路を造るなどはまさに画期的な大事業でありました。
工事は難工事で、機械も道路もない時代ゆえ人海戦術で進められました。
兼山には有能な家臣が多く、この工事は土木技術者として名高い一木権兵衛が担当しました。
兼山は当初から仁淀川の大規模な工事を始めたのではなく、初めは小さな川を堰止めて工事に成功し、次々と大きな工事に取り組んだのです。
八田堰を造るのに際しては、まず、巨石や大木を投入しましたが、一度洪水が起こるとこれらの巨石や大木がひとたまりもなく押し流されました。そこで「四つ枠」工法といって、大きな木を四つに組んで“ぬき”を通し、石を入れて岸の両側から順に沈めて工事を進めていきました。川の中央部には水勢に逆らわないよう堰が下流へ弓なりに湾曲するように造り、そして洪水の際に中央部が自然に決壊して、たまっている土砂を流して水害の発生を防いだといわれています。
また夜間提灯をつけて、高低の水平測量をしたことや、八田、弘岡境の行(ゆき)当(とう)工事の際、岩盤が非常に堅く、付近の農家に作ってある「芋がら」=ずいき=の干したものを持ってきて、それを岩盤の上で焼き岩を柔らかくして少しずつ削り取っていったなど、いろいろの物語りが伝えられています。
この八田堰の工事によって、吾南地方は新たに、862町歩(1町歩は約1ha)の新田ができました。八田堰は昭和の初期に近代的な堰及び取水施設に改修されています。
現在、吾南地方では沃野が広がり、土佐のデンマークと言われ県下の穀倉地帯の一つになっています。