波川玄蕃城跡(葛木城)

波川玄蕃はかわげんば城跡じょうあと(葛木城)

所在地
いの町波川
所有者
いの町
指定日
昭和46(1971)年2月25日

いの町の市街地から西方に山々を望みますと、かんぽの宿伊野の向こうに、NHKのテレビ塔が立っております。ここは昔、天正年間(1570年頃)に伊野地方で勢力のあった武将、波川玄蕃頭(げんばのかみ)蘇我清宗の城跡で周り約5.5m、幅約1.5m、高さ2.0mの土塁の跡がほぼ完全な形で残っています。

波川玄蕃清宗は長宗我部元親の妹を妻にして元親とは義兄弟の間柄です。しかし元親に謀叛を企てたとして、天正8(1580)年、47歳でもって阿州海部(現、徳島県海部町)で切腹をさせられ相果てました。波川の城は清宗の死後一族が滅ぼされて消滅したと推定せられています。

波川玄蕃城は一名葛木城ともいわれ、いわゆる山城です。海抜171.0mの山上で周りを土塁で囲み、西北隅及び南東に出入口の跡があり、本丸の下段に二の郭はあります。

昭和48(1973)年城跡の発掘調査をしましたところ、約50.0㎝掘ったところから、およそ30cm四方の石が現れました。さらに周辺を彫りますと一間(1.8m)に一個の割合で規則正しく並んだ基礎が約30個発見されました。基礎は東西に約9.2m、南北に3.6mの長方形です。これは兵器や食糧などを収納する「多聞」と呼ばれる倉庫の基礎と推定されます。これに柱を立て板ぶきか草ぶきの屋根を土塁にさしかけていたものと考えられます。

この城の形態によって天正時代の築城の方法がうかがわれますが、こうした山上に埋まった城跡の発掘調査は全国でも少ないので、考古学、中世史、建築史などの点からも、いっそう今後の研究が期待されるところと言えましょう。
春・秋には地元の小・中学生・ハイキングの人々で賑わい、城跡に立ち、つわものどもの夢のあとを偲ぶもよし、頂上から眺める仁淀川の景観もまた格別です。


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