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町指定文化財


柳瀬やなのせ二社にしゃ神社じんじゃ古文書こもんしょ
所在地
いの町柳瀬本村
所有者
三宮凱温・宮地正修
員数
6
指定日
平成13(2001)年6月13日

6冊全部和綴本。県内で発見されたものは、今回がはじめてで、県内には所有している町村はありません。厚い紙で質がよく本そのものに値打ちがあります。

いの町柳瀬本村に二社神社があります。柳瀬部落の中央、山麓に位置します。この神社の本殿の奥深く、神職と一部の世話役しか知らされざる正に禁断の古書がありました。神社拝殿修理の話が起きたのをきっかけに、その数年後に持ち出されました。以下、6冊の古文書を紹介します。


1.長宗我部地検帳 正本 一冊

表書に「土佐国吾河郡下分柳之瀬村地検帳」「慶長二年六月十一日」とあります。

和綴本で、綴(つづり)紐(ひも)は麻紐で四綴、表紙は厚紙、縦37.3p(約一尺二寸三分)、横22.4p(約七寸四分)、表紙裏表紙共厚紙、淡茶色、左上に甲壱号と朱書されています。裏表紙に「紙数四拾壱枚両表紙共」とあり、紙質は表紙内容共に特別な厚手の和紙で特別注文によるものと思われます。内容は柳瀬村の土地各筆一筆毎に誌し、上田中田下田、上屋敷、中屋敷、下屋敷、上畠、中畠、下畠、切畠などと区別して合計面積を記しています。終り書は次のとおり。調査日は6月11日であって、書誌にしたのが6月19日、調査役人山内新右衛門以下6人の記名があります。そして、次のページに下記の書があります。

「右本帳者長宗我部代之地検帳依経数年 文字難見付令書写並校合之所也」

寛永拾壱甲戌年 校合 田中九兵衛

六月廿八日 同じ 藤田七右衛門

筆者 中山三兵衛

又、次のページの下記の書があります。

「右者柳之瀬村地検帳御矢倉帳二引合令校合違之

所加判形付札五枚在之令割判都合判数六つ押之右外削字直字無之所也」

地方役人

元禄四年末 諏訪半兵衛 印

四月朔日  同じ

中田藤三郎 印

柳瀬村地検帳の基帳と申すべき古文書が、高知県立図書館に保管されています。本書は、天正15(1587)年9月より地検開始、慶長3(1598)年に完了した由、全巻368冊全部国の重要文化財として、昭和32(1957)年10月22日と昭和46(1971)年6月22日と2回に分けて指定されています。

これを見るにつけても思われるのは、天正15年9月地検を開始しているが、前年14(1586)年10月九州島津征討軍に元親と長男信親と出陣、戸次川(へつぎがわ)の戦で信親は勇戦して討死したことです。地検開始の翌16(1588)年には岡豊城を廃して大高坂城へ移り、また、浦戸城へ移りそれから数年小田原改め、二度の朝鮮出兵、慶長元(1596)年スペイン船サンフエリペ号漂着、同2年正月朝鮮再征に出発、同3年8月太閤(豊臣秀吉)死亡により戦闘停止、将兵引揚げとなりましたが、翌4年5月19日伏見において元親は62歳の生涯を終えました。

本書は、寛永の時に長宗我部地検帳を書き改めたとあるとおり、その時製作されたものであり、元禄の時の文言にもある通り一字一句の改竄(かいざん)も許されぬ厳正重要の公文書で、各村一冊保管最高の貴重書でこの文言より察すると、庄屋村役人など罷(まか)り間違えば首の飛ぶ程のことであったでしょう。地検帳がいかに大切な書類であったかを知る重要資料であります。また本書は、各村庄屋の役所に、各自の村の地検帳一冊が常備されていた筈です。けれど県内町村に残っているものや、県立図書館資料班では存在の情報を聞かず、発見されたとしても柳瀬村検地帳の如く製作当初の姿をそのままとどめ、いささかの損傷もない状態というのは望みにくいことを考えると、本書が完全無欠で残っているのは、神殿の奥深く蔵して貴重に扱った庄屋宮地氏と村民の功労といえます。


2.長宗我部地検帳 副本 乙壹号

本書は、大きさは正本と縦横共々寸法は同一でありますが、紙質は格段の差があって薄く普通の民衆使用の筆記用紙が使用されています。表紙左上に「乙壹号」と朱書されていて、紙数は25枚と裏表紙に墨書がれています。筆数は正体が一頁三筆宛(あて)であるのに対して、本書は五筆宛記載され各頁に付紙があります。ずいぶん長期使用されたらしく、大分くたびれています。奥書は、寛永11年までのものがありますが元禄のものはありません。


3.諸堂御改指出 1冊

延享5年辰5月と記されています。延享戌辰(1748)年5月の書で、柳瀬本村及び石見などの神社沸堂石地蔵など氏宮を中心にして、調査報告書を藩へ提出した控書です。中には、天和元年銘の銀幣ありなどと記してあり、当時の信仰状況を知る資料です。ちなみに、普通の元号表を見ると、延享は4年までで5年はなく、寛延と改元されているので、延享5(1748)年と書かれているのは誤りとなりますが、これは、5年7月12日改元して寛延となるので、本書の延享5年5月は正しいです。


4.氏宮当組並本百姓覚 1冊(米の作柄、天候等毎年の記録)

表紙には天明3(1783)年以降とありますが、中を見ると明和9(1772)年壬辰年より書かれています。表書以降7、8枚はボロボロで損傷甚だしいため丁寧な扱いが必要です。辛うじて判読できる明和9年以前にも数枚ありますが、うかつな扱いはできません。専門の表具屋に補修を依頼すれば、年代を数年遡る資料が判読し得るでしょう。明和9年は当人達であろう人達の名が9人くらい記されています。明和9年が11月16日安永と改元されています。当時の江戸は、田沼意次が政権を掌握して世民は生活に苦しみ、落首して曰(いわ)く「年号は安し永しと代われども 物価交直 今に明和九」(迷惑)と。この明和9年の記述は8月の祭のときの記録であるので、元号の点は誤りではありません。

以下、安政2(1855)年まで毎年の氏宮祭典当人が各自交替で、当人代表が自署しています。 当人は6人くらいから9人くらい、筆跡が皆違っていて柳瀬の百姓が皆、文字が達者にかけて教養も相当ありし事をうかがわせます。所々各年の天候、農作物並びに祭典用濁酒の出来具合、神田の米の収量、肴(さかな)の鮎(あゆ)の事など、和気藹々(わきあいあい)の暮らしぶりが記されています。毎年休みなく記録されており、継続は力なりで貴重資料となっています。


5.奉正遷宮 1冊(お堂がどのようにあったかがわかる資料)

「安政六(1859)年発未四月十五日『二社大明神宮御本社拝殿建立』」の記録で、遷宮祭に奉仕した神職一同7人のすこぶる厳(いか)めしい名が誌されています。祭主神主宮地越前正藤原為政、神主宮地相模正藤原政好、以下、全員、何々云々正藤原某とあり、柳瀬村の大工も大原瀬平政方と書かれています。当時の武士階級を頂点とした身分制度の厳しい時代に、前記の氏宮当組の人々がことごとく名前のみで、誰一人姓が記されてないことと対比して大いに研究の余地あるものと思われます。


6.氏宮再建帳 1冊(各人の寄付、支出の明細。当日物価状況がわかる)

「安政七甲申(1860)年三月七日」

氏宮の二社大明神本殿拝殿再建に伴う経費及び寄進明細帳で、当時の物価、人情などが伺えて、この古文書を正確に読み解けば、更なる発見があると思われる研究課題の文書です。ここに記されているのは3月7日、それより11日にもまたもや改元して万延となります。通常の歴史年表には、安政7(1860)年がないので誤ではないかと思われますが、本書の記録が正しいのです。歴史的事件として有名な、桜田門外にて幕府の大老井伊直弼暗殺を万延元(1860)年3月3日降り積む雪を蹴り立てなどと威勢よく書いて、現在では万延元年3月3日が定着していますが、歴史学としては正確には安政7年3月3日となるべきですが、嘘も期く定着してはメクジラ立てても仕方がありません。当神社の記録は元号研究に好適な資料を相続いて提供しています。





 

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