いの町、町指定文化財、若宮天神社(宮地神社)の棟札の本文へ
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町指定文化財


若宮天わかみやてん神社じんじゃ(宮地みやじ神社じんじゃ)のむなふだ
所在地
いの町柳瀬本村
所有者
宮地正修、他21名
員数
7点
指定日
平成11(1999)年6月14日

石見は江戸時代の「郷帳」によれば、柳瀬村に所属します。石見分に於いての寺社の歴史の概要は次のとおりです。「長宗我部地検帳」石見の部で、「石見観音堂、床六代四分」と記し、江戸中期の「土佐州郡志」には「円妙寺址在石見、観音堂在石見」と記しています。さらに文化十年編の「南路志」に「石見観音堂 天正十七己丑年正月……弘岡御分」とあり、石見観音堂の歴史は長いですが、石見の若宮天神社の存在は文献には出てきません。また明治初年の「神社明細帳」にも、宮地神社は存在も記されていません。

若宮天幡(満)天神及び若宮天神社が江戸時代後期の呼名、それが明治以降は宮地神社と呼ぶようになります。そしてこの神社が氏社と呼ぶべきで宮地氏の祖霊を祀ったものであります。ただ、江戸時代後期は祖先祭祀の姿は、直接には確認できていません。

この社に残っている7枚の各棟札を時代順に紹介します。


1.文政3(1820)年の棟札

棟札の高さ26p、上部・中部の幅7.6p、下部の幅7.4pであって下部が細くなります。厚さ5o、頭部は山形をなし、山形の高さ1.2pです。棟札表面の左下に長さ5.2pの隅切りが見られます。材は杉。

棟札表面の中央部に大きく「奉造建若宮天幡天神」と記し、その下に4行にわたって「柳野瀬邑庄屋/宮地小作/神主宮地越中正/宮地惣氏子中」と記されています。裏面には、中央に大きく「天下泰平国家安穏氏子繁昌所」と記し、側面右上部に「文政3年」、その左上部に「庚辰正月吉祥日」とあります。右下には「肝煎 宮地佐平」左下には2行にわたって、次のとおり。「大工 柳野瀬村/宮地□□□□」

以上の棟札によって、次のような事が解ります。

  1. 棟札主文の「奉造建」によって、この神社は文政3年に創建した事。
  2. 「若宮天幡天神」の若宮は新しく祭った神社の事。天幡天神は天満天神と同意語です。そして、特に菅公を天満宮・天満天神と称して祭祀する場合は御霊信仰が中心。
  3. この棟札に見られる宮地氏は、「伊野町史」によれば、18世紀末の寛政期から幕末にかけて柳瀬村の庄屋であった。庄屋になって30年たつと、神社を建てる資金もできるのでしょう。
  4. この時の社創建は、宮地一族でなされています。

文政3年の棟札
(左:裏、右:表)


2.文政12(1828)年の棟札

高さ61.2p、上部の幅13.5p、中央部の幅13.6p、下部の幅13.9pであって上部から下部にむかって少しずつ幅を広めています。厚さ6o。頭部は三角状の山形を呈し、山形の高さ3.2p。杉板を薄く削り作り上げています。棟札表面の左下に、長さ8.7pのかすかな隅切りが見られます。

棟札表面の中央に大きく「奉再建若宮天神社」と記し、その左にやや小さく「文政十二己巳四月吉日」と記されています。そして、その下部に「神主宮地越中正」とし、その左に「庄屋宮地小作」とする。裏面には中央に「天下泰平国家安全氏子繁栄」と大きく記し、下部の右に2行で「外御普請本郷山番/寿衛」と記し、下部左に2行にわたって次のように記されています。

「寄進□□□実/同     □□」
この棟札によって、次の事が判明します。

  1. この段階で祭神天幡天神はただの天神に変わります。天神は菅公の信仰に変わりはないですが、雷雨神としての信仰を中心に至誠・孝道、国家鎮護、往生守護、詩文・和歌、書道等の多岐にわたり、信仰の庶民化が見られます。
  2. 文政5(1822)年、土佐西部を中心に暴風雨に襲われ、建てて数年しかたって社殿も被害にあい、12年にはやっと修理に及んだと推測されます。
  3. 庄屋・神主は宮地一族と見られ、神主の越中正は京都の吉田家から神官の補壬状を受けたのでしょう。
  4. 寄付を募って社を造営した山番は、山方役人の最下位の者で、身分は農民。宮地氏とは懇意な者であったのでしょう。

文政12年の棟札
(左:裏、右:表)


3.弘化2(1845)年の棟札

頭部山形をなし、山形の高さ3.7p、山形の基礎の幅13.4p、棟札の高さ67.3pです。上部幅13.1p、中部の幅12.6p、下部の幅11.6p、厚さ1.0p。杉板で造られています。表面左下に長さ7.5pの隅切りが見られます。

棟札の表面には、中央に大きく次のごとく記されています。「奉建立若宮天神本社一宇天長地久氏子繁栄」。

そして、その右にやや小さく次の有名な山崎闇斎(1618−82)の語を掲げています。「神垂祈祷冥加正直」(神は人の祈祷や正直に対して恵み垂れ加えるの意。冥は神仏の作用をいいます。「垂加社語」に掲げています。)対して左側面に「玉體之女龕置成笑楽」と記されています。そして、棟札の下部には5行にわたり次のようにあります。

「柳瀬村/庄屋宮地文蔵/神主宮地越前正/大工瀬平/キモ入市他」。

この棟札は非常に問題点を持つものです。また非常に貴重なる棟札でもあります。その問題点は次のとおり。

  1. 弘化2年に建立された若宮天神は、棟札を見るに再建ではなく、新しく建立したものです。棟札によって知る若宮天神の歴史からは、再建でなければなりません。それが建立という記載であるため、歴史が隠されているのでしょう。まず、若宮天神に祀られる神が変更されたと見られます。従来は天神即菅公でありましたが、新しく建立した天神社は、先の棟札の文「玉體之女龕置成笑楽」(玉体の女=め、がん=神仏を安置する小箱、に置きなして笑い楽=あそぶ。)からして、天つ神の天神を祀ったと見られます。「令義解」神祀令では、天神には伊勢、山城鴨、住吉、出雲国造斎神。これからすれば、差当り伊勢でしょう。なお「古事記」では、天之御中主命をはじめ天常立神までを、別(こと)天神とよんでいます。
  2. 棟札に書かれた「神垂祈祷冥加正直」の垂加神道の語から、神官宮地越前正は垂加神道に心酔していたと思われます。そして、庄屋宮地文蔵も、その影響を受けていたのでしょう。山崎闇斎は伊勢神道の五部書である「倭姫命世記」にある「神垂……冥加」から「垂加」の二字を採っています。そして、その思想には伊勢神道が影響し、吉田神道も影響している。更に、垂加神道は朱子学でいう「天人合一」の原理を神道に当てはめ「天人唯一之道」として、人間には、神霊が内在していると説いています。

文政12年の棟札
(左:裏、右:表)


4.万延2(1861)年の棟札2枚

万延2年の5年前の安政3年には、大地震があり、多分天神社も大きな被害を受けたのでしょう。このための再建が万延2年のものです。そして、この再建は従来の者と異なり、まず上棟式で棟札を造り、最後の建立成就で再び棟札を造っています。


○上棟式の棟札

この棟札の高さ36.4p。頭部は山形をなし、山形の高さ1.6p、その幅8.4p、更に上部の幅8.2p、中央部の幅7.6p、下部の幅7pです。杉板で造り、厚さ9o、札の左下に長さ5.3pの隅切りがあります。札の表面には中央部に縦書きで、「奉上棟 手置帆負命・彦挟知命 宮成就」と記し、その下部に3行にわたって小さく次のように記されています。「柳ノ瀬村/工匠/大原勢平政方」 なお、手置帆負命と彦挟知命とは、並記しています。裏面の文は、中央に縦書きで「天下泰平国土安全氏子繁栄所」と記し、札の右肩には「万延二辛酉年」左肩には「二月吉日吉時」と記されています。

この棟札はあまり知られていない形式のものです。よっていくつかの問題点を解説しましょう。

  1. この上棟式は簡素なもので、工匠(宮大工)が行う上棟式です。それゆえ庄屋や神主が書かれていません。
  2. 上棟式で祀られる神は並記された二神です。タオキホオイノミコト・ヒコサシリノミコトの二神は「古語拾遺」によると、岩戸に籠ったアマテラスを出現させるため瑞殿(みずのみあらか)を作成しています。これによって二神は上棟式の神とされます。
  3. 同じ大工が行った上棟式の棟札は「伊野史談」44の「枝川藤ヶ瀬天満天神の調査」にあります。天保10(1839)年の上棟式の上棟で、主祭神は天御中主神であす。このタイプの棟札が、歴史的に古く、天神社のものは新しいです。更に新しいタイプのものも在りますが、伊野ではまだ未発見です。

万延2年 上棟式の棟札
(左:裏、右:表)

○建立・本社成就の棟札

頭部山形をなし、山形の高さ1.7p、山形の基部の幅8.6p、棟札の高さ36.6pです。上部幅8.3p、中部の幅7.8p、下部の幅7.5p、厚さ1p、檜材で造られています。棟札表の左下に長さ4.6pの隅切りがあります。

棟札正面の中央部に次のように記されています。

「上奉建立若宮天神本社成就」 その右に「神座祈祷」とし、左に「万延二年酉二月十五日」。それらの下に5行にわたって、「柳瀬村 庄屋宮地文蔵正義/同武之助正衛/神主宮地越前正為政/同相模正政好/大工瀬平政方」。

棟札裏面には、中央に「寿天下泰平国家安穏」と記し、その左下に「惣氏子繁栄」とあります。なお中央の文の下に「木村石見惣氏子中」本村とすべきを木村としています。その文の右に小さく「肝入り 竹次郎」と記されています。

この棟札の問題点は、

  1. 再建であるべきところを建立としています。これは安政3年の大地震によって、ひどく破壊された後の社再建で、新しく神社を建てる以上に経費が掛かり、新たに神社を建立する意気込みでなされたと考えます。
  2. 万延2年の棟札には、垂加神道そのものを示す文言は書かれていません。ただ、上棟祭の棟札には、「古語拾遺」に出てくる神をして上棟祭りの主神としています。これは間接的に、垂加神道が存することを物語っています。「古語拾遺」の選者は忌部広成で、特に忌部氏は朝廷の祭祀に関与し、主として祭祀の用具・弊帛の調整、神璽の剣・鏡の捧持、神殿・宮殿の造営にたずさわってきました。そして山崎闇斎は忌部坦斎の弟子石出帯刀より忌部神道を学び、それを垂加神道に取り入れています。
  3. 本社成就の棟札にある神座は、神社のなかで御霊代を奉安する場所を指します。また、庄屋・神主、その子息は特に姓・本名・異名と重ねて記し、大工も上棟式の棟札に同様しています。

万延2年の建立・本社成就の棟札
(左:裏、右:表)


5.明治13(1880)年の棟札

高さ56.8pの棟札で、頭部が三角形状をなし、その高さは2.2pです。上部幅11.5p、中部幅10.3p、下部幅9.1pで、厚さ2.2pで厚く檜材で造られています。従来の棟札とやや異なります。表面の中央部に大きく縦書きで、「上 再建宮地神社本社一宇」と記されています。

その左下に二行で次のように記されています。「謹執/宮地政義」棟札の裏面は、中央上部に一時大きく「寿」と記し、その下にやや小さく縦書きで、次のようにしるされています。「明治十三年辰三月廿五日 氏子繁栄敬白」。その下に四行で「安喜郡井ノ口村/大工 東村源次/石見世話人/宮地宅次」

先の万延2年の建立から19年目にして、今回の再建となります。明治維新を通過したため神社名も一族の姓をとった宮地神社となります。

謹執は、つつしんでつかさどるという意味ですが、執は神と人の間を取り持つ意味もあります。宮地政義は、万延2年、弘化2年の建立にも庄屋として立ち会い、併せて今回の再建にも関与しています。 この明治13年の棟札のミニチュアがあります。高さ19.3pの小形の棟札であり、文面もほぼ同一です。ただ、この小形の棟札には長さ2.5pの隅切りがありますが、大きいものには隅切りはありません。小形のものは万一に備えての保存用と考えられます。

明治13年の棟札
(左:裏、右:表)


6.昭和13(1938)年の棟札

薄い杉板で造り、頭部は山形をなします。山形の高さ1.0p、棟札の高さ78.5p、厚さ3.0pで幅は狭いです。上部幅7.0p、中部幅6.4p、底部幅5.6pです。棟札の裏には、「昭和十三年旧二月十三日 建築総代官仙作」と記しています。58年ぶりの再建です。そして、平成11(1999)年に再建しています。これは61年ぶりの再建となります。

宮地(若宮)神社は、今では祖先の霊を祀っていますが、同家の伝承にある「土佐に下向した宮地一郎次」を開祖として特に祀っています。これを証するが如く同社を通称「一臈様」と称しています。

昭和13年の棟札
(左:裏、右:表)



 

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