いの町、町指定文化財、野中兼山遺跡「鎌田堰の跡」の本文へ
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町指定文化財


野中兼山のなかけんざん遺跡いせき鎌田堰かまたぜきあと
所在地
いの町鎌田〜伊野
指定日
昭和41(1966)年11月29日

八田堰の上流約2.5qのところに国鉄土讃線の鉄橋が架かっています。この橋の下が「鎌田堰の跡」で右岸の茶屋床に取入口がありましたが今は何も残っておりません。

鎌田堰は、八田堰と同様野中兼山によって築造されました。今から三百数十年前、八田堰の工事に成功した兼山は、次は高岡地方の新田開発に乗り出し、承応3(1654)年鎌田堰築造に着工しました。

鎌田堰も八田堰と同様、難工事の連続でしたが先に八田堰の成功を見ている兼山だけに強い自信があったのでしょう。この堰の長さは545m(300間)、18.1m(10間)、高さ12.7m(7間)に及び、鎌田(右岸)に近いところに“水越し”を設け、ここを通過する舟筏で賑わい「鎌田堰の筏越し」として名高かったということです。

工事は記録によると着工が既述の承応3年、竣工したのは明暦元(1655)年となっており、着工より2ヵ年で出来たことになっています。八田堰関係は6年を要しているのに対し、鎌田堰は僅か2ヵ年ですが、これは堰のみの築造ではないでしょうか。

もっともこの工事中兼山は、「毎日高岡から柿色の立付袴をはき、腰に焼きめしをつけ、従者を一人連れ、馬に乗って現場に出向き工事を督励した。」と野中兼山関係文書にありますので、堰の工事はかなりはかどったものと思われます。しかし、井筋全部が完全に仕上がったのは、このあと約20年はかかったようです。

昭和12(1937)年、高岡郡日高村下分に水門を設け、トンネルを掘り抜き、堰を築かず落差による、自然流水の方法に改築したため、約300年に近い歳月利用されてきた「鎌田堰」は、遂に昭和17(1942)年をもって取り除かれました。

現在は、川内小学校の東と仁淀川堤防の間に大きく掘削された井筋の跡が残っているのみで、これがただ一つ「鎌田堰の跡」を偲ぶ手がかりと言えましょう。

昔の鎌田堰は見えなくなりましたが、鎌田井筋は、23q弱(5里24町32間)に及び、東岸の八田、弘岡井筋と合わせると、幹流2、支流6となり、その延長48.32q、灌漑面積は実に1549ha(1549町4反4畝)の大新田、沃野ができました。将に未曽有の大事業であったのです。


 

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